P.S.Fuck you

注意喚起です。この記事は性被害のトラウマやフラッシュバックに触れています。心に余裕のある時に読んでください。

 

 

 

何もかもとっぱらった本来の自分の姿は、目立ちたくない、ただの夢想家だと思っている。それは昔からなにも変わらない自分の本質だ。
瞑想をするとそのままの自分でいられる気がする。瞑想の時に浮かんでくる記憶は素直だ。悩みと直結したものが多い。
瞑想する時は、静かな部屋で、落ち着いた態勢で、たっぷりと時間をとってその記憶と対峙できるので、わりとすんなり和解できる。
浮かんでくる記憶はたいてい、他人と会話してわかり合えなかった時や自分の意図がろくに伝わらず、ないがしろにされた瞬間のものだったりする。

「違う人間だ、ほうっておけ」。その場は簡単に割り切ろうとするが、次第にその傷つきが小さい頃から何度も再演され続けてきた、根深いものだったことに気づいていく。


祖父から受けた性被害の意味に気づいたのは、高校の時だった。どうやら当たり前のことではないらしい。
高校ニ年になると祖父が癌に侵され、皆祖父のために足繁く見舞いに通った。無理やり見舞いにつれていかれたときは、祖父とも話さず読書をして過ごした。祖父が話しかけてきたような気がする。話そうよ、と気を使って声をかけたのかもしれない。「嫌いだからいい」と答えたような、おぼろげな記憶もある。
祖父にされたことはどうやら許してはいけないものだという予感があった。そのうち祖父は死んで、法事は黙って大きいドクロマークのTシャツを着た。
線香をあげるときは頭を真っ白にして、ウートートーする。仏壇に手を合わせることをウートートーという。今更何を黙祷すればいいのか。P.S.Fuck you。
思いのうちは自分も含めて誰にもわからなかった。その時は言語化できる術はなかったし、でもそれが決定的に自分を苦しめる原因ではないのも感じていた。

 

正直、この時期にまつわるエピソードは大抵「落胆から断絶」を辿る。これは祖父と私だけの記憶ではなくて、周囲の大人たち、他者との断絶の物語だ。
例えば母は記憶に蓋をするタイプだ。自分だけでなく、人が傷ついた記憶を忘れてしまう。過去に関心がないので、人の性格や内面にそれとの関連性を見いだせない。
それは過去の被害と私のクィア性を簡単に結びつける短絡さにも繋がった。当然のことだが、その人の性自認セクシャリティは過去のトラウマや被害経験からくるものより、その人の特性として見るのが正解である。それらが完全に関与していないと言い切るわけではないが、伝統的な価値観や規範に添えない「ねじれ」や「歪み」としてそれを片付ける危険性があり、それは目の前の人間の人格を無視するレッテル貼りの「加害」でもある。

母は説明してもあまりピンときてもないようだった。そもそもあまり関心がない。
被害の記憶は忘れ去られてしまう。それ自体が傷跡を深くし、それはじきに落胆に変わる。そしてドアを閉める。それは大人になっても、別の形で繰り返されている。断絶という溝は、他者とのコミュニケーションで何度となく再演されたものである。

 

他人と何かの話題で、こちらの話を最後まで聞いてもらうこともなく否定されて終わった時――相対的な価値で人を推し量られた時――首がクッと締めつけられて、それ自体が嫌な経験の記憶として何度も反芻され、それが日常のあらゆる瞬間でフラッシュバックしてくる。
その時一人で、じゅうぶんな時間があり、休める部屋があったなら、フラッシュバックを見逃してはいけない。
辛い一瞬をやり過ごしたら、少しだけ、瞑想をする。正直瞑想とは言えない。感情的で攻撃的でなげやりな自己が顔を出す。そいつを説得してやるべきことを見出すのが、その時の自分なりのセラピーになる。「違う人間だ、ほうっとおけ」。それだけでは満足してくれない。落胆という傷は他人へのリベンジマッチにしてはいけない。そこに必要なのは絶対的な軸だ。でも、それに必要なのは、私を傷つける目の前の他者を、その他大勢に取り戻す相対的な軸だ。それができて、やっと過去の自分を、今の自分が超えてくれる。そして一人一派に相応しい自立が形になってくる。
実はドアは閉めておくのが正解なのだ。鍵が壊れているのがバレてしまうから。

 

大学時代にジェンダー系の自主ゼミに誘われて入っていた。まったく関係のない学部の生徒だったので、その場で行われるディスカッションに全くついていけなかった。私の見当外れのジェンダー観は、やる気のある生徒たちと全く噛み合わない。その時、その場のわたしの発言は、旧時代的で、つまらなくて、無自覚な加害性に溢れたものだった。ゼミに誘ってくれた年上の外部生も、私が見当違いな事を言う度に、気まずそうな顔をして、「学部が違うからね」と少しだけフォローした。私はそのうち何らかの理由をつけてゼミをやめた。

ゼミで使った、ぼろくそにこき下ろされたレジュメがある。今では確かにこれは見当違いだとわかる。レジュメを作る際に、ゼミの一人が手助けしてくれる予定だったが、見放されて一人で作ったものだった。
見放されたことを聞いた外部生が、「ひどいね」と怒りをあらわにした。ちょっとだけびっくりした。でも、忙しかっただろうし、と色々フォローしたりごまかそうとしたけど、それよりも驚きのあとに嬉しさが勝った。「ひどいね」。
人のために怒る他者がいる。父は祖父に線香をあげない。だが、祖父のことに対する意見の相違はある。ドアは開けてはいけない。ただ、鍵が壊れていることに、怒る人がいる。

 

 

ライ麦畑の隣でいちゃもんつけて

J.D.サリンジャーの半伝記的映画を見たのですが、彼が作家を目指して書き続けるシーンには熱く心が揺さぶられました。ですが、彼が最終的に作家としては社会的に隠れてしまったことが残念です。作家とは「書かずにはいられない」人種なので、彼はその後も作品を書き続けたそうですが、ある意味作家名義で書いたものを世に出すいう行為は、自分の主張に責任を持って社会にコミットする、という意味合いがあるように思えるのです。

ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドは一体何についてそんなにいんちき、いんちきだと言っているんでしょうね。
物事に真摯に向き合う方法がわからず、冷笑的な態度がやめられない、そういう未熟さと、形になりきらない漠然とした高潔さなんでしょうか。
皮肉的な態度は若さゆえの万能感かもしれませんが、彼が美しいと思ったものを拾える感性がとても救いだと思います。ホールデン表現者の卵です。
一番好きなシーンはホールデンが「ライ麦畑の捕手になりたい」と言った時に妹フィービーが返した言葉です。「歌詞が正確でない」という指摘だったと思います。
形にならない高潔さへのクリティカルな指摘だったと思います。何が美しいか、何がインチキか…本質は別に本質ではないのだと思います。ただ、正確でなければいけないのだと思います。それが他人への敬意であり、表面に示せる唯一の高潔さだったのだと思います。サリンジャーの描くナイーブな青年よりも、それに怒ったり助言しようとする他者的キャラクターが大好きでした。孤独なキャラクターとの社会への繋がりを感じたからです。サリンジャーは作家としての発表を控えてしまいましたが、私には作家として社会に繋がる意味を教えてくれた人です。

eiga.com

 

創作を続けています。バラバラだったアイディアが一つに収束して、やっと誰のために書くのかという動機が明確になりました。
物語るためには心構えが必要なのだと気づきました。そのためには、積もるに積もった伝えたいことを吐き出す必要があるなと。それは答えのある具体的な散文ですが、そうして書き続けてるうちに、やっとクリエイティブが顔を出してしました。

恣意的「だった」ものの在り処

今やりたいことはとにかく文章の出力を上げることなので今のところは問題はないのですが、こうして語ることで逆に創作から離れてしまっていないか不安になります。
言語化の力を信じすぎている気はしていて、創作はもっと意訳できない粗雑さがあってもいいように思うからです。

今考えているのは沖縄アイデンティティについての物語で、それは政治や民族間の問題よりも、もっと個人的なものです。私は歴史的、政治事象といった外在的な問題には疎く、ですが戦争の悲惨さが人間を世紀に渡って大きく翻弄していくことを知っています。
写真家の伊波リンダさんの作品の中に《Design of Okinawa》(2015)というシリーズがあるのですが、「沖縄のデザイン」「沖縄はデザインされている」のどちらの意味にも取れるようになっている、と伊波さんは仰っています。
沖縄のデザイン性について、それは時代によって変異していくものです。沖縄戦、米軍統治下を経て混沌と激動だった沖縄はいつしか恣意的なものを失い、「デザイン」されていくものだと思います。それが洗練というかはまた別の話です。

 

せっかくなのでサクラ大戦の記事を書きました。本当は心にとめておこうかなと思っていたことですが。サクラ大戦は、大学時代東京にいた時特に熱をあげていた作品でした。サクラ大戦の舞台を繰り返しみて、スティングの『イングリッシュマンインニューヨーク』をずっと聞いていました。自分を締め付ける疎外感と、自分のアイデンティティについて繰り返し考え続けました。その時の自分への目配せに、なりますように。

 

note.com

悩みの搾取について


対他人よりも自己発信でいられるSNSが好きです。


私は議論や口頭による批評などで何かを断言する人が苦手で、自分で語る時はいつも余白を残しておきたいです。
というのも飲み込まれてしまうから、という自分の軸の弱さもありますが、それよりもいつでもその続きから考え続ける余地を残しておきたい。それが私にとって考え続けることだし、それはコミュニケーションする上でもそうです。


答えは押し付けるものでなく自分で出すものだし、自分の作品でもあまり正解を押し付けたくないです。私の正解はあるんですが、それは私の正解であって読者のものではありません。
だから自分の気に入ってる作品とかはふわふわしたものが多いんですが、漫画媒体だとそのようなものは実感的にはあまり求められてないように思えます。
今の漫画はジャンル性の高さが求められるし、比較的自由の利く青年漫画であってもとにかく大げさなエンタメ性が必要です。

ともかく、それを他人に押し付けるのは、侵しちゃいけない領域に踏み込んでると思います。悩みの搾取なんだと思います。本来会話の本質はおうむ返しや言葉の言い換えにあって、それ以上はそこから意味を見出そうとしすぎな気もします(それはそれで楽しいものですが)。断言がすぎると大体は多弁で、それは情報量のパワハラな場合も多々あります。


断言しないことは私なりの自他境界の引き方でもあります。この世の神話は裁きを下す神ばかりなので、それへの対抗心でもあります。表現する上でもそうでありたいし、描きたいのは人間の割り切れなさとその人にとって最悪な瞬間に見せる人間性のギャップです。「人それぞれ」で簡単に話を終わらせるのは簡単で思考停止かもしれませんが、多義的にそれを捉えようとすることは生きる上で有用な技術です。

長い目で見ればなんもかんも怪しくて曖昧で捉え方次第でグレーだからこそ、本来グレーなものをグレーなままにしておくために言語化は大事だと思います。考える余地をくれた先人たちのおかげで考え続けたり葛藤したりして生きてるので、白黒と物事をジャッジしがちな世からそれ自体をありのままの状態に取り戻したいです。もし断言するなら、それは限りなく不可能だからこそやらなきゃいけないことだと思います。そしてこれは口頭のコミュニケーションによるものより、何らかの表現の方が向いています。


劇作家の平田オリザさんが、文化の地域格差についておっしゃっていたことがあるのですが、「自然は感性を育むが、社会から求められるのはそれを伝える能力だ」(要約です)。他者に求められる限り、それを伝えるための言語化を諦めてはいけない理由であり、不特定多数を想定した文章媒体を世に出すことの意義なんだと思います。

 

 

この文章を一通り書いたあとで、村上春樹さんのスピーチをふと思い出してまた読みました。エルサレム賞を受賞した時のスピーチです。「壁と卵」。

“小説家はうまい嘘をつくことによって、本当のように見える虚構を創り出すことによって、真実を別の場所に引っ張り出し、その姿に別の光をあてることができるからです。真実をそのままのかたちで捉え、正確に描写することは多くの場合ほとんど不可能です。だからこそ我々は、真実をおびき出して虚構の場所に移動させ、虚構のかたちに置き換えることによって、真実の尻尾をつかまえようとするのです。しかしそのためにはまず真実のありかを、自らの中に明確にしておかなくてはなりません。それがうまい嘘をつくための大事な資格になります。”

この話に似たようなことなんだと思います。ありのままの状態に取り戻すということは結局のところ私というフィルターを通した別の虚構です。でもできるだけならその光がスポットライトではなく背後から輪郭を浮かび上がらせるようなものであればいいなと思います。

 

はじめまして

こんにちは。みちです。
ちょっとの間漫画家とかやらせて頂いてました。SNSは畳んでしまったので、わざわざブログまで見つけて読む人は中々いないだろうなぁと思います。

漫画家のこうの史代さんが楽しそうにブログやられてるの見て、自分も何か書かずにはいられないなぁと思いました。この直近では目立った作品を世に出す予定はないので(構想しているものはありますが)、人知れず何かつぶやくだけで十分かなと思います。とにかく言語化しないと、みたいな強迫観念もあります。でも何か始めるには人の楽しそうなところを見るのが一番だった。
昔から目立つことが怖くて、その逆張りばかりしてきたので、これくらいがちょうどいいかな。

躁鬱的なものを抱えていて何度となく失敗しているので、もう別の人格として生きようかなあと思ったんですけど、人生は地続きなんですよね。こうの先生がのびのびとブログを書かれて、作家としてどっしり確立されてるのに驕らずにいられるところを見てると、何か取り繕うのが浅ましいなあと思えるんですよね。いっそ恥も迷ってることさえも含めて、せめて素直でいるしかできないなぁと。それでいて、また何か書かずにはいられない自分もいて、自分の表現方法を見直しています。漫画はたまには描きたいです。(今のところは!)

 

たたみますが、続きも似たような話です。

 

続きを読む