ライ麦畑の隣でいちゃもんつけて

J.D.サリンジャーの半伝記的映画を見たのですが、彼が作家を目指して書き続けるシーンには熱く心が揺さぶられました。ですが、彼が最終的に作家としては社会的に隠れてしまったことが残念です。作家とは「書かずにはいられない」人種なので、彼はその後も作品を書き続けたそうですが、ある意味作家名義で書いたものを世に出すいう行為は、自分の主張に責任を持って社会にコミットする、という意味合いがあるように思えるのです。

ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドは一体何についてそんなにいんちき、いんちきだと言っているんでしょうね。
物事に真摯に向き合う方法がわからず、冷笑的な態度がやめられない、そういう未熟さと、形になりきらない漠然とした高潔さなんでしょうか。
皮肉的な態度は若さゆえの万能感かもしれませんが、彼が美しいと思ったものを拾える感性がとても救いだと思います。ホールデン表現者の卵です。
一番好きなシーンはホールデンが「ライ麦畑の捕手になりたい」と言った時に妹フィービーが返した言葉です。「歌詞が正確でない」という指摘だったと思います。
形にならない高潔さへのクリティカルな指摘だったと思います。何が美しいか、何がインチキか…本質は別に本質ではないのだと思います。ただ、正確でなければいけないのだと思います。それが他人への敬意であり、表面に示せる唯一の高潔さだったのだと思います。サリンジャーの描くナイーブな青年よりも、それに怒ったり助言しようとする他者的キャラクターが大好きでした。孤独なキャラクターとの社会への繋がりを感じたからです。サリンジャーは作家としての発表を控えてしまいましたが、私には作家として社会に繋がる意味を教えてくれた人です。

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創作を続けています。バラバラだったアイディアが一つに収束して、やっと誰のために書くのかという動機が明確になりました。
物語るためには心構えが必要なのだと気づきました。そのためには、積もるに積もった伝えたいことを吐き出す必要があるなと。それは答えのある具体的な散文ですが、そうして書き続けてるうちに、やっとクリエイティブが顔を出してしました。