悩みの搾取について


対他人よりも自己発信でいられるSNSが好きです。


私は議論や口頭による批評などで何かを断言する人が苦手で、自分で語る時はいつも余白を残しておきたいです。
というのも飲み込まれてしまうから、という自分の軸の弱さもありますが、それよりもいつでもその続きから考え続ける余地を残しておきたい。それが私にとって考え続けることだし、それはコミュニケーションする上でもそうです。


答えは押し付けるものでなく自分で出すものだし、自分の作品でもあまり正解を押し付けたくないです。私の正解はあるんですが、それは私の正解であって読者のものではありません。
だから自分の気に入ってる作品とかはふわふわしたものが多いんですが、漫画媒体だとそのようなものは実感的にはあまり求められてないように思えます。
今の漫画はジャンル性の高さが求められるし、比較的自由の利く青年漫画であってもとにかく大げさなエンタメ性が必要です。

ともかく、それを他人に押し付けるのは、侵しちゃいけない領域に踏み込んでると思います。悩みの搾取なんだと思います。本来会話の本質はおうむ返しや言葉の言い換えにあって、それ以上はそこから意味を見出そうとしすぎな気もします(それはそれで楽しいものですが)。断言がすぎると大体は多弁で、それは情報量のパワハラな場合も多々あります。


断言しないことは私なりの自他境界の引き方でもあります。この世の神話は裁きを下す神ばかりなので、それへの対抗心でもあります。表現する上でもそうでありたいし、描きたいのは人間の割り切れなさとその人にとって最悪な瞬間に見せる人間性のギャップです。「人それぞれ」で簡単に話を終わらせるのは簡単で思考停止かもしれませんが、多義的にそれを捉えようとすることは生きる上で有用な技術です。

長い目で見ればなんもかんも怪しくて曖昧で捉え方次第でグレーだからこそ、本来グレーなものをグレーなままにしておくために言語化は大事だと思います。考える余地をくれた先人たちのおかげで考え続けたり葛藤したりして生きてるので、白黒と物事をジャッジしがちな世からそれ自体をありのままの状態に取り戻したいです。もし断言するなら、それは限りなく不可能だからこそやらなきゃいけないことだと思います。そしてこれは口頭のコミュニケーションによるものより、何らかの表現の方が向いています。


劇作家の平田オリザさんが、文化の地域格差についておっしゃっていたことがあるのですが、「自然は感性を育むが、社会から求められるのはそれを伝える能力だ」(要約です)。他者に求められる限り、それを伝えるための言語化を諦めてはいけない理由であり、不特定多数を想定した文章媒体を世に出すことの意義なんだと思います。

 

 

この文章を一通り書いたあとで、村上春樹さんのスピーチをふと思い出してまた読みました。エルサレム賞を受賞した時のスピーチです。「壁と卵」。

“小説家はうまい嘘をつくことによって、本当のように見える虚構を創り出すことによって、真実を別の場所に引っ張り出し、その姿に別の光をあてることができるからです。真実をそのままのかたちで捉え、正確に描写することは多くの場合ほとんど不可能です。だからこそ我々は、真実をおびき出して虚構の場所に移動させ、虚構のかたちに置き換えることによって、真実の尻尾をつかまえようとするのです。しかしそのためにはまず真実のありかを、自らの中に明確にしておかなくてはなりません。それがうまい嘘をつくための大事な資格になります。”

この話に似たようなことなんだと思います。ありのままの状態に取り戻すということは結局のところ私というフィルターを通した別の虚構です。でもできるだけならその光がスポットライトではなく背後から輪郭を浮かび上がらせるようなものであればいいなと思います。