恣意的「だった」ものの在り処

今やりたいことはとにかく文章の出力を上げることなので今のところは問題はないのですが、こうして語ることで逆に創作から離れてしまっていないか不安になります。
言語化の力を信じすぎている気はしていて、創作はもっと意訳できない粗雑さがあってもいいように思うからです。

今考えているのは沖縄アイデンティティについての物語で、それは政治や民族間の問題よりも、もっと個人的なものです。私は歴史的、政治事象といった外在的な問題には疎く、ですが戦争の悲惨さが人間を世紀に渡って大きく翻弄していくことを知っています。
写真家の伊波リンダさんの作品の中に《Design of Okinawa》(2015)というシリーズがあるのですが、「沖縄のデザイン」「沖縄はデザインされている」のどちらの意味にも取れるようになっている、と伊波さんは仰っています。
沖縄のデザイン性について、それは時代によって変異していくものです。沖縄戦、米軍統治下を経て混沌と激動だった沖縄はいつしか恣意的なものを失い、「デザイン」されていくものだと思います。それが洗練というかはまた別の話です。

 

せっかくなのでサクラ大戦の記事を書きました。本当は心にとめておこうかなと思っていたことですが。サクラ大戦は、大学時代東京にいた時特に熱をあげていた作品でした。サクラ大戦の舞台を繰り返しみて、スティングの『イングリッシュマンインニューヨーク』をずっと聞いていました。自分を締め付ける疎外感と、自分のアイデンティティについて繰り返し考え続けました。その時の自分への目配せに、なりますように。

 

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